宮本百合子2(青空文庫より)

 足許のドアがそっと開いて、素子が入って来た。ベッドに近づいて朝子が目をあいているのを見ると、咄嗟に表情に出た安堵と憐憫の感動をそれとなし抑えた声で、
「気分は?」
と云った。
「眠ったらしいから、もう大丈夫だ、ね」
 そして、わざと心持にはふれずに、
「ともかく電報うっといたから」
と云った。
「帰らないということとお悔みとをうっておいたから」
「それでいいわ。ありがとう」
 その昼、朝子はすこしおくれて素子に扶けられながら食堂へ出た。窓に並んでいるゼラニウムの赤や桃色の満開の花鉢、白い布のかかった食卓の上に並べられている食器も、それに向ってかけている男女の顔ぶれも、いかにも下宿らしく、何ひとつ一昨日と変ったことはない。けれども衰弱している朝子の神経にはそこいらにあるのが妙に目新しく、一人一人の顔もくっきりとした輪廓をもって心に映った。食事がすむと、頭をすっかり韃靼風の丸剃りにした技師をはじめ居合わせた人々が、朝子に握手して悔みをのべた。ヴェルデル博士と呼ばれている小柄で真面目な老人が最後に朝子の手を執って、地味な楔形の顎髯と同じに黒い落着いた眼差しを向けながら、
「そうやって勇気を失わずにいられることは結構です。あなたはまだお若い。苦痛もしのげます」
 そう云いながら懇ろな風で執っている朝子の丸々とした手の甲を軽くたたいた。「ありがとうございます」朝子はつい泣けそうになった。ヴェルデル博士の励ましかたは、何かのときよく父親の佐々が朝子の手をとってすると全く同じ表現であった。ヴェルデル博士に情のこもった軽打をされると、その刹那に朝子の心には悲しそうに伏目になって唇の両端を拇指と薬指とで押えるようにしている父親の親愛な表情が泛んだ。高校生であった保を喪った父の悲痛な気持が、たまらなく思いやられた。もし朝子がいたら、父は自分で涙をこぼしながらも、きっとやはりそういう風に娘の手をとって、それを握って、そして自分と朝子とを励ましただろう。自分がこのことで帰ったりはしないという気持をもっている、その心持も、苦しさや悲しさがこうして相通じているその心の流れのなかで父にはわかるだろう。朝子は考えに沈みながら、露台の方へ出て行った。

 子供たちの明るい人生をつくろうと、このごろではいろいろな親と子と教師のための本なども出て来ましたし、美しい外国映画も紹介されます。
 しかし現実の毎日の生活のなかで、主婦であり母であるひとの心痛のたねは、どこにあるでしょう。幼い子供から中学生にいたる年配の家の子どもたちとしての少年、少女のなやみは、どういうところにあるでしょう。
 いくらかでも自分で働ける若いお母さんたちが託児所の必要にめざめて来た勢は、金づまりと共に、きわめてつよいものがあります。子供の雑誌でも託児所が必要である年ごろの児童用から小学六年生までのものは、だいぶよくなりました。
 幼児の生活が、健康の点にも精神の上にも一生を通じて大切だということに着目されて来たのはよろこばしいことです。
 ところが、中学生のものになると、今出ている少年向の雑誌の多くは、急に内容がおそまつになっています。どう編集していいかわからないらしくて、ともかく野球と冒険談でお茶をにごしているかとさえ思えます。
 これは現代の中学生の生活の内容が、おとなとまじって、たいへん複雑になって来ている証拠です。十一府県の部分的な調査でさえ、中学生たちの中「働きつつ学ぶもの」が四一五二人、「長期欠席」は六〇一〇人でした。東京の朝の街に四時ごろから納豆をうり歩く十歳から十五歳までの少年たちがふえ、全国で労働している少年は一〇五万人もあります。少女はまた昔のように紡績工場に働き、売られて行く子もふえました。
 この春中学校を卒業しても就職できなかった多勢の少年、少女とその親とのきょうの暮しは、どんなこころもちでしょう。
 母たちが「うちのこだけは」と個人のがんばりでりきむだけでは、未来の大人である子供の生活にあかるいみとおしを与えることはできにくくなるばかりです。
 母と子も「どうせ、うちなんか、金もないんだから」とあきらめてかかる習慣を、どういう場合にも、つけないことが大切です。一人の人間が生きるために働くこと、そうして社会人として必要な教育をうけること。それは当然の権利なのだから、母も子も、生活を着実に見まわして、そこにある可能を発展させてゆくために協力する時代になっています。
 親がしてやる、してくれない、の時代はすぎました。親子で、そして社会のみんなで、力を合わせて、やって行くべき時代なのです。

        若々しい時代の影響

 私たちの育った時代の父と母との生活ぶりを考えると、若い生活力の旺な自分たちの生活への態度そのものの中に幼い子供たちをひっくるめて前進して行ったという感じがする。
 もし家庭教育ということを云えば、そういう積極活溌な日常の生活感情が、おのずから親として子供らに対するあらゆる場合の裡に溢れていて、子供の人生への歩みぶりにいつとはなし影響して来ていたと思われる。
 ごく活々としていた家の空気は大人にとっても子供にとっても成長力の漲ったものであったが、それは人間の成熟のために計劃され、整理されたものではなくて自然に、云って見れば父や母の年齢、気質、時代の雰囲気との関係でかもし出されていたものだったから、両親が年をとるにつれて、若々しく克己的で精励だった気分は変化した。そして、大きくなった子供としてはそこに悲しさや苦しさを感じるようなものも生じた。
 或る程度までは誰についても云われることだろうが、うちの父や母は自分たちの時代のいろいろな歴史の性格というものを自分では其と知らず、しかも全幅的に生きた人たちであった。
 今考えて見て、一つの大きい仕合わせだったと思うことは、父も母も、型にはまった家庭教育という枠を、自分たちと子供らとの間からとりはずして大人も子供も一つ屋根の下ではむき出しに生活して行ったことだと思う。明治と共に生きた親たちは、一種の人本主義で、盆栽のような人間の拵えかたには興味を感じないたちであった。人間は人間らしく誰にも十分に生きるべきだし、そういう風に生きてよいものなのだという感情は、家庭の空気の様々な変化を貫いて流れていたと思う。
 親たちは、時によれば子供たちのいるところで喧嘩もしたし、やがては親と子との間に議論もされてゆくという風であった。綺麗ごとで送られる毎日ではなかった。