宮本百合子

 読者はこの作家の実行運動において最も拙劣な、機械的なオルグを見るのである。強制献金のための村の衆の集りに出て、アジ・プロしようという機会そのものの積極的なとらえかたは、間違った方法によって失敗に帰したのだが、僕というプロレタリア作家は、手紙のこの部分になると、階級的先進分子としてオルグ的活動と作家的活動とを、完全に分裂した実践として行っている。
 失敗した宣伝教育の自己批判を通して、彼の口惜しさ、悲しみが読者の胸に浸み込むような真実さで手紙は書かれていない。第一信と同じ饒舌な文調で、書くために書かれている。オルグはオルグ、作家は作家、そして手紙を書くにあたって、まさに僕は作家なのであるという分裂を行っている。「どうでも書かずに居れぬ」と切迫した実感において自己の失敗を書くとき、誰が「いや――こんな描写を重ねていては君を退屈させる。僕はいい加減にペンをはし折らねばならぬ。ども小説書きというやつはどんな場合でも呑気でいかん」などといりもしない断り書きをするほど、そんな不必要なお喋りをするであろうか! そういう作家であるからこそかんじんの村の集りで自分だけいい心持ちになって喋り、やがて「あたりを見廻して」みなが自分のまわりを離れ、区長や雑貨屋の方へかたまって彼をぬすみ見ているのに、「驚いた」りするのである。活々した階級的人間的生活の種々雑多の具象性に対し最も感受性が鋭く、個々の具象性の分析、綜合から客観的現実への総括を、あるいはその逆の作用をみずみずしく営み得るはずのプロレタリア作家ともあるものが、自分のしゃべる言葉に対する大衆的反応を刻々感得することなく、自身を「排斥された異端者」と文学的に詠嘆するに至っては、一箇の腹立たしい漫画である。
 なるほど、村についた最初から彼プロレタリア作家は、K部落の窮乏がどんな外見をとって現れているかということは、こまかに書きとめている。外から部落へ入って来たものとして観ている。しかしそれらさまざまの外見をとって起る事件が、部落民の世界観をいかにかえつつあるかという大切な要因については、その重大さに必要なだけ細心で執拗な関心を払っていない。
 作家は「悲劇が来た」と報じている。馬をとられた三次の女房の発狂にしろ、気が違った女房が役場に日参しているという現実の報告で終っている。現実の非惨事のこれだけの現象主義的把握は一応大衆作家でもやるのである。われわれに必要なのは、そのようにして女房まで発狂させられた三次が、戦争に対し、政府に対し、どんなにこれまでと違う心持を抱くようになって来たか。三次のその不幸はまた部落民の心にどんな影響を与えたか、そのことこそ必要なのである。この三次に強制献金は何と響くであろう。彼プロレタリア作家は暗い納戸で寓話化されたソヴェト同盟を幻想に描くよりさきに、三次の事件を想起すべきであった。しかし彼は村の神社の集りへ出て、鉈をふった平次郎は念頭においたが、三次が集りに来ているかいないかさえ問題にしていない。
 同時に、その部落と彼との関係はどこまでも、「僕」「彼ら」あるいは「百姓たち」という関係におかれ、しかも「実行運動」に当って「僕」なるものが、部落の大衆にどんな感情でうけ入れられているかという、大切な計画をぬかしている。部落へついた第一日に「味噌又」のおやじに「点呼で? そうかそうか。そしてもう社会主義たらいうもんやめて?」云々といわれている彼にしてみれば、「川上の弟じゃ、菊坊じゃ!」というだけではすまさぬ複雑な部落民の先入観によって迎えられていることは明らかである。

 若い婦人が戦争の間、あれほど幸福をうちやぶられてくらしてきたのに、まだ幸福というものが一つのきまった箱のようにどこかにあって、それを自分のものにするかしないかというふうに考えているとすれば、あんまり悲惨なことだと思います。愛は創造の力です。苦痛をのりこえてそこによろこびをつくりだしてゆく能力をもつものです。今日の主婦のすべてが経験している家事の重荷、これから結婚しようとする若い婦人たちをおそれさすほど重い世帯の苦労は、まじめなすべての男子が自分たちの不幸の一つとして見ているものです。愛しあった男女というのは、その社会的な苦労を、自分たちの一生の努力で社会的に少くしてゆこうと心をあわせて進んでゆく、そこに決して、倦怠の生じないような愛の発展を生むでしょう。
 幸福になるために結婚する、結婚するために恋愛する、これはなんていう理屈っぽいような理屈にあわないことでしょう。わたしたちは互いに生きてゆく心のうえで気があうからこそ愛すのです。愛する人間同士だからこそ、結婚もしたいのです。幸福に生きてゆきたいからこそ、その愛をまもり、発展させてゆく社会的な条件をふやそうとして努力するのです。わたしたちはこの人生において自分たちの幸福を、自分たちの生きる力こそがつくってゆくものであることを、腹から知らなければならないと思います。

 短い月日の間に、はげしく推移する情勢に応じて書かれた一九三三年ごろの諸評論には、いそいで刻下に必要な階級文化のための土台ごしらえを堅めようとする著者のたたかいの気迫がみなぎっている。そのたたかいの気迫、抵抗の猛勇な精神は、その情勢の中では「過渡期の道標」のようなタッチでは表現されなかった。著者は階級的な社会発展とその文学理論の要石をつよくしっかり据えようと奮闘している。
 新鮮な階級的な知性と実践的な生の脈うちとで鳴っていた「敗北の文学」「過渡期の道標」の調子は、そのメロディーを失って熱いテムポにかわった。情感へのアッピールの調子から理性への説得にうつった。
 この時期の評論が、どのように当時の世界革命文学の理論の段階を反映し、日本の独自な潰走の情熱とたたかっているかということについての研究は、極めて精密にされる必要がある。そして、当時のプロレタリヤ文学運動の解釈に加えられた歪曲が正される必要がある。
 十二年をへだて、今日著者がたまに書く文学評論は、主題と表現の問題にしろよりリアルにとらえられていて、人民的な民主主義社会とその文学の達成のために、堅ろうな階級的骨組みとくさびとを与えている。
 著者自身が一九二九年に「過渡期」として通過した日本のインテリゲンツィアの諸問題は、今日一般において決して著者が通過したようにはとおりすぎられていない。日本の文学感覚はまだもろく弱くて、文学といえば、人は理性の視点と水平なものとしてそれを感じないくせがある。戦争は、客観的な真実に対して素直である人間の理性をうちこわした。そしてわたしたちは長い間、客観的な文芸評論というものを持たされなかった。きょう、またおどろくような迅さで、日本の人民生活と文化とが高波にさらされようとしているとき、文学を文学として守るためにも、この著者の諸評論は丈夫な足がかりを与えるものである。

 
 
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